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箆柄暦『二月の沖縄』2019 登川誠仁&知名定男『ライブ!~ゆんたくと唄遊び~』

2019.01.28
  • インタビュー
箆柄暦『二月の沖縄』2019 登川誠仁&知名定男『ライブ!~ゆんたくと唄遊び~』

《Piratsuka Special Review & Interview》

登川誠仁&知名定男
『ライブ!~ゆんたくと唄遊び~』
〜民謡界の二大スター、圧巻の師弟共演!〜

20代の頃から沖縄芸能界にその名を轟かせ、ソロ活動はもとより沖縄芝居や琉球舞踊の地謡、オリジナル民謡の作詞作曲、さらには映画『ナビィの恋』への出演など、幅広く活躍した“誠小(せいぐゎー)”こと登川誠仁。その彼のもとで12歳から唄三線を学び、唄者として高い人気と評価を得る一方、島唄ポップスグループ・ネーネーズや島唄ライブイベント「琉球フェスティバル」などのプロデュースも手がけ、沖縄音楽シーンを牽引してきた知名定男。

長年の師弟関係にあった二人は、2013年に登川が逝去するまでの間、何度か同じステージに立っている。このたび、その貴重な記録の一編が、2枚組アルバム『ライブ!~ゆんたくと唄遊び~』としてリリースされた。音源は2001年9月5日、東京・青山のライブハウス「CAY」で開催されたコンサート「ゆんたくと唄遊び~夢の共演!ふたりのビッグショー」からのものである。

ここでは本作の主役の一人である知名本人に、師匠・登川誠仁についてのさまざまな思い出を語ってもらった。アルバムの内容と絡めながら紹介していこう。

●遊び心は持ちつつも、唄三線は正統派

—-このアルバムは2001年9月5日に、東京・青山の「CAY」で行われたお二人のコンサートの模様を収録したものですね。登川さんが68歳、知名さんが56歳のときの録音です。

知名 ええ、そうですね。ただ僕自身は、当日のことはあまり詳しく覚えていないんですよ(笑)。
僕はCAYには、このライブ以前にも何回か出演してるんです。ネーネーズと一緒に出たり、長谷川きよしさんと共演したり、(登川のライバル的存在であった唄者の)嘉手苅林昌さん(※)をお連れしたこともあります。嘉手苅さんは当時、だんだんお年を召してこられたせいか、ステージで手抜きをするようになってて(笑)。ライブの日も、三線の調弦を下げてラクに歌おうとしてたので、僕が「三線は僕がちゃんと調弦して、舞台に用意しておきますから」って預かって、力まないと歌えないくらいの高さに上げておいたんです(笑)。そうしたらもう、ものすごい歌になりましたね。

※嘉手苅林昌(かでかる・りんしょう):1920年生まれ。戦後の沖縄民謡界を代表する唄者の一人で「島唄の神様」と呼ばれた。1999年に逝去。

誠小師匠には、そのときの話を僕がいろいろと聞かせていたので、ライブ当日は闘志が湧いてきて、嘉手苅さんに負けじと踏ん張ったんじゃないかな(笑)。やっぱり多少は煽ったほうが、師匠はやる気になりますから。

—-登川さんと嘉手苅さんは、どんな関係だったんでしょう。

知名 うーん、顔を合わせれば罵り合う仲、ですかね(笑)。二人とも酒癖が悪くて、酒を飲むとケンカを始めるんです。師匠が嘉手苅さんに向かって「あんたはもっと言葉をはっきり歌いなさい」って言ったりとかね(笑)。

でもそう言いながらも、歌に関してはお互いに認め合っていましたね。二人の歌の世界は、味わいがまったく違ってて、師匠はどちらかというと正統派なんです。遊び心は十分に持ってるんですけど、歌そのものは正統派。琉球古典音楽も勉強してるし、工工四も研究しているから、基本の通りに演奏しようとする。

それに対して嘉手苅さんは、絶対に決まったとおりにはやらない人。古典でさえ自分流に演奏してしまう。それぞれ違ってて両方すごいんだけど、私生活では二人とも、野蛮でけんかっ早くて酒好きで(笑)、そこは共通してましたね。そして飲めば罵り合うから、僕は居合わせるたびに「もう、イヤだなあ」と思ってました(笑)。

●ライブのモットーは「お客さんを楽しませる」こと

—-その「イヤだなあ」という状況は、知名さんが登川さんに弟子入りした当初からあったのでしょうか。

知名 そうですね(笑)。僕が師匠に弟子入りしたのは12歳のときで、たまたま出場した地元のノド自慢大会に、彼が審査員で来ていて、「弟子にならないか」と誘われたのがきっかけです。

もともと僕の親父(民謡の大家である知名定繁)も、僕が子どもの頃は大酒飲みで、けっこう荒れた時期もあって、僕はそれがイヤだったんですね。夫婦ゲンカも絶えないし。だから、誠小師匠のところに行って内弟子になれば、少しは(生活環境が良くなって)癒やされるかな、と思って。でも行ってみたら、そこはそれでまた、さらにすごい状況だったという(笑)。

師匠の生活態度は本当にひどくて、酒は飲むわ博打はするわ口は悪いわ、奥さんともしょっちゅうケンカするし、嘉手苅さんとも酒を飲むたび罵り合ってました(笑)。内弟子生活中の3年間は、そういうひどい面をさんざん見せられて、本当にイヤでしたねえ。だけど歌を聴いたら、そのイヤな部分を清算しておつりが来るくらいのすごさがあるんですよね。

—-その登川さんの「すごさ」とは、具体的にどんなところでしょう。一般的には「早弾きの誠小」で知られていて、「沖縄のジミ・ヘンドリックス」と呼ばれたりもしていますが。

知名 早弾きもすごいですけど、あれはお客さんを喜ばせて圧倒しようという、いわば興行用のパフォーマンスでもあるんです。師匠は「ライブはただ歌って聴かせるんじゃ面白くない、お客さんを楽しませないといかん」というのがモットーだったので、演奏にしろトークにしろ、とにかくいろんな面白いことを考えるんですね。とにかくプロ意識は強かったと思います。その姿勢は、どんなライブでも徹底していました。

その言葉通り、今回アルバム化されたライブの中でも、登川の観客に対するサービス精神はいかんなく発揮されている。

まず前半はそれぞれのソロが主で、「ナークニー」「白雲節」「トバラーマ」「トーガニー」など、民謡の定番曲を中心に進んでいく。知名の艶やかな歌声と流麗な三線のフレーズ、登川の渋く味わい深い歌い回しにリズミックな六線の響き。どちらも実に素晴らしいのだが、やはり特筆すべきは後半の、「誠小オンステージ」ともいうべき圧巻の演奏だ。

ステージが進むにつれ、興が乗ってきた登川は徐々に本領を発揮。「君が代」の六線演奏に始まり、コミカルな替え歌や遊び歌、民謡22曲を一節ずつ歌いつなぐ「民謡節渡り」、そして十八番の早弾き「アッチャメー小」と、怒濤のパフォーマンスが続く。実はこのとき、登川は病気療養のため入院先から退院したばかりで、当日もライブ直前まで楽屋で横になっていたという(そのため事前の打ち合わせは一切なく、曲目も未定だったとのこと)。だが、ステージではそんな裏事情は一切感じさせず、パワフルな弾きっぷり、歌いっぷりで次々と歌を繰り出してくる。そんな師匠をしっかりと支える、知名の巧みなサポートも実に見事だ。

さらにアンコールでは、同年に登川のアルバム『スピリチュアル・ユニティ』のプロデュースを手がけたソウル・フラワー・ユニオンの中川敬(※)が、客席から飛び入り出演。「登川誠仁 with ソウル・フラワー・ユニオン」名義でリリースした登川のオリジナル曲「緑の沖縄」を、二人のデュエットで楽しげに共演している。とにかく最後まで「お客さんを楽しませたい」という登川の思いが、如実に表れたライブといえよう。

※中川敬(なかがわ・たかし):ミクスチャー・ロックバンド「ソウル・フラワー・ユニオン」のボーカル&ギター。1999年にCMで共演したのがきっかけで登川と意気投合し、彼のアルバム『スピリチュアル・ユニティ』の共同プロデュースを手がけた。

ちなみに本作では、歌だけでなく曲間のゆんたく(おしゃべり)もすべて収録しているのだが、ここでも登川のサービス精神が炸裂している。飄々とした語り口のトークには、誠小ならではのすっとぼけたジョークが入り交じり、爆笑必至の面白さだ。なお会場が東京なので、トークはほぼ標準語となっている。ウチナーグチがわからなくても問題なく楽しめるので、そこはどうぞご安心を。

●独学で自分のスタイルを作った師匠は「天才」

—-そういった登川さんの「プロ意識の強さ」は、どういった経験から培われたものなのでしょうか。

知名 師匠の場合、昔から三線一本でメシを食ってましたからね。僕が内弟子に入った当時、師匠はまだ25、6歳でしたが、民謡界ではすでに第一人者で、実力も名声も飛び抜けていました。当時は名の知れた唄者でも、歌だけでは生活できなくて、農業とか軍作業とか、別の仕事もしているのが普通でしたが、彼は沖縄芝居や琉球舞踊の地謡で引っ張りだこだったので、三線一本でメシを食えていたんです。舞踊家や役者達は、みんな「誠小の三線が一番踊りやすい」と絶賛していました。

師匠は沖縄芝居や歌劇で歌われる歌の歌詞を、全部きちんと覚えてるんですね。だから舞台上の役者の動きに合わせて弾けるし、役者の声域に合わせてさっとチンダミ(調弦)を変えることもできる。耳がよくて応用力があって、さらに早弾きもできる。その早弾きにしても、彼のカチャーシーは単に踊りやすいだけじゃなくて、三線のハジキ方やリズム感が絶妙で、楽曲としてじっくり聴いても素晴らしいんです。弾き始めも普通はゆっくりからスタートして、徐々にテンポアップしていくのに、師匠はいきなりインテンポ(本来の速さ)で弾き始められる。こんな人、他にいませんよ。

そして師匠が何よりすごいのは、そういった自分の唄三線のスタイルを、ほぼ独学で作ってきたことです。これはやっぱり天性の才能でしょうね。僕もデビュー当時は「天才少年」なんて言われましたけど(笑)、僕の場合は師匠や嘉手苅林昌さんをはじめ、周囲に一級品の歌い手がたくさんいて、彼らの影響を受けた結果としての「天才」なんです。師匠も僕を囲い込むようなことは一切せずに、「みんなの歌を聴いて勉強せえ」とか、「あの人の歌はこういうところがいいんだ、よく聴いておけ」とかって言ってくれました。だから僕はすごく環境に恵まれていたといえますが、師匠の場合は、そういったお手本がほとんどいなかったわけですからね。そんな中で自分の唄三線を作り上げていった師匠は、本物の天才だと思います。

—-そんな師匠との稽古は、どんな感じだったのでしょうか。

知名 稽古といっても「こう弾きなさい」と教わるわけじゃなくて、ライブや舞台の現場で一緒に歌いながら覚える感じでした。でも、そこで三線の奏法とか歌い方とかはみっちり勉強しましたから、やはり彼のもとで修行したことが、今の僕につながるすべてといえます。

ちなみに、内弟子として師匠の家に住み込んでいたのは3年間でしたが、その後も興業があるたび呼ばれて一緒に演奏していたので、師弟関係はずっと続いていました。師匠も「伴奏は定男にしてもらうのが、一番歌いやすい」って言ってくれてましたし。

そういえば、師匠は僕には直接言わなかったけど、他の人には「定男と一緒にやるのは緊張する」と言っていたみたいです。「あいつの耳は鋭いから」って。ただ、その緊張感も好きだったんでしょうね。二人でライブするときは、「定男、いいライブしような。お前には負けられんぞ」みたいな気持ちが伝わってきました。

あと、1990年代以降に僕がネーネーズを世に出したり、琉球フェスティバルをプロデュースしたりするようになって以降は、「あいつ、この頃やけに偉くなりやがって」とも言ってたらしいです(笑)。でもそれは嫉妬とかじゃなくて、「俺が育てた弟子の定男が、こんなに活躍している」って喜んでたんですね。彼なりに、僕を評価してくれてたんだと思います。

●師匠がいなかったら、今の自分はなかった

—-では、歌以外で師匠から教わったことは何かありましたか?

知名 何一つないですね(笑)。(前述の通り)生活態度は本当にひどかったから。ただ、彼自身もそんな自分の生き方には、ものすごく後悔の念があったんじゃないでしょうか。だって師匠が作る歌は、教訓歌が圧倒的に多いんですよ(笑)。自分はめちゃくちゃな人生を送っておきながら、歌詞では「人生はこうあるべき」なんて説いてて、「お前がそれ言うか?」みたいな(笑)。本人にとっては、あれは反省文みたいなものだったのかもしれません。とにかく「ひどい話」には事欠かなかったです。

—-たとえば、どんな「ひどい話」が?

知名 これは若い頃ですが、師匠と奥さんがケンカして、奥さんが乳飲み子を残して家出したら、師匠はその子を僕の家に連れてきて、自分は一人で飲みに行っちゃったことがありました(笑)。あのときは確か、奥さんに連絡して子どもを迎えに来てもらったんだと思うんだけど、本当に困りましたよ。

またあるときは無免許でバイクに乗ってて、「捕まったら大変でしょ」って諫めたら、「免許持ってないから、捕まっても免許は取り上げられない」とか言うし(笑)。あと、長年の酒の飲み過ぎで肝臓が悪かったので、入院もしょっちゅうだったんですが、見舞金を持っていくとニヤッとして、「小遣いがなくなったらすぐ入院しようね、見舞金が集まるから」なんて言うし(笑)。そのときは「バカ言わないでください」って怒ったけど、考えてみればそんな性格のやんちゃさと、歌に対する真面目さ、その二面性にまた可愛げがあって、たくさんの人に慕われたのかもしれません。

—-映画『ナビィの恋』での演技も「かわいい」と評判になりましたね。

知名 そう、師匠はけっこう若い子にモテるんです(笑)。同じ巨匠でも、嘉手苅さんはちょっとおっかなくて近寄りがたい印象があるけど、師匠は誰とでも気軽に接するタイプですから。『ナビィの恋』で人気になって以降は、本人も「映画俳優の登川誠仁です」なんて自己紹介してましたね(笑)。

—-そんな登川さんが亡くなった今、知名さんは師匠に対して、どのような思いを抱いておられますか。

知名 ああいうすごい師匠と一緒に、生前にこうしてライブで共演したり、共作アルバム『登川誠仁&知名定男』を作ったりできたのは、本当に光栄なことだったと、改めて思います。師匠が元気な頃から、「追いつこうと思って追いつける存在じゃない」と感じていましたが、亡くなった今となってはもう絶対に追いつけないわけで。今でも僕の中で、師匠の存在は絶大なものです。師匠がいなかったら、今の自分はなかった。その意味でもこのライブアルバムは、僕にとって大切な歴史の一つですね。

知名がそう語るこのアルバムは、とにもかくにも最初から最後まで、まるで会場の客席で聴いているかのような臨場感にあふれており、掛け値なしに聴きごたえ十分だ。登川と知名、二人の間に揺るぎない絆と信頼があってこその見事なステージが堪能できる。民謡ファン必聴の名盤である。(取材&文・高橋久未子)

登川誠仁(のぼりかわ・せいじん):1932年(昭和7年)生まれ。7歳から三線を始め、16歳で沖縄芝居の人気劇団「松劇団」に入団、地謡の見習いとして修行を積む。その後も多数の一流劇団で地謡を務め、20代半ばには沖縄民謡界の人気スターに。1999年、沖縄を舞台にした映画『ナビィの恋』に準主役として出演、全国的にも知名度を得た。2013年3月逝去。

知名定男(ちな・さだお):1945年(昭和20年)、大阪生まれ。父は沖縄民謡界の重鎮・知名定繁。57年に父と共に帰沖後、登川誠仁の内弟子となり、12歳でレコードデビュー。71年、瀬良垣苗子に提供した「うんじゅが情どぅ頼まりる」が大ヒット。78年にはアルバム『赤花』で全国デビュー。90年代以降はネーネーズのプロデューサーとしても脚光を浴びる。現在は那覇で自身が経営する「ライブハウス島唄」を拠点に、唄者・プロデューサーとして活躍中。

[CD Info]

登川誠仁&知名定男
『ライブ!~ゆんたくと唄遊び~』
リスペクトレコード
RES-313~314(2枚組)
3,400円(税別)
2019/1/23発売

[Disc1]ナークニー~はんた原/白雲節/安田越地/スーキカンナー/移民口説/博多祝いめでた節~きんさんぎんさん/トバラーマ/ナークニー~山原汀間当/泊高橋/トーガニー/ヤッチャー小~山原汀間当
[Disc2]花風/君が代/遊びションガネー/加那よー~逆加那よー/籠の鳥/まっくろけ節/おはら節~一大事なったわい/民謡節渡り(ましゅんく節~仲座兄~戻り駕籠~本部ナークニー~汀間当~よー加那よー~山原汀間当~かいさーれー~クラハ山田~汗水節~スーキカンナー~月ぬ夜節~谷茶前~ヒンスー尾類小~ムエー小節~汀間当~かまやしなー~弥勒節~狩俣ぬイサミガ~与那武岳金兄小があーぐ~まみどぅま~六調)/アッチャメー小/ジントーヨーワルツ/緑の沖縄(with 中川敬 from ソウル・フラワー・ユニオン)

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