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2019年7月19日 金曜日

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箆柄暦『五月の沖縄』2019 下地暁

《Piratsuka Special Interview》

下地暁
~変わりゆく島で、島への変わらぬ思いを歌う~

下地暁は、生まれ故郷の宮古島を拠点に活躍するシンガーソングライターだ。もともとは東京で約15年間活動していたが、27年前、故郷から方言が消えていく状況に危機感を抱いて帰島。以降は「島独自の文化を次世代に継承したい」と、ライブやCD制作、ラジオ番組の企画制作、地元のミュージシャンや伝統芸能イベントのプロデュース等、さまざまな活動に取り組んできた。

その彼がこの春、3年半ぶりに発表した新作が『From Myahk』だ。本作は既発の『Myahk(ミャーク)』『宮古世(ミャークユー)』に続く“ミャーク(宮古)シリーズ”の第3弾。彼はこの作品に、どんな思いを込めたのか。これまでの活動歴も振り返りながら、最新作や故郷の現状についても語ってもらった。

●故郷の方言を次世代につなぐため、東京からの帰島を決意

—-下地さんは現在、故郷の宮古島で音楽活動をされていますが、ミュージシャンとしてのキャリアの出発点は東京だそうですね。

下地 ええ。高校卒業後の1970年代後半、横浜の日産自動車に就職するために上京したんですが、宮古島で一緒にバンドをやっていた友達が東京にいて、「また一緒にバンドをやろう」って話になったんです。高校時代はグランド・ファンク・レイルロードとか、ディープ・パープルとかのコピーバンドをやっていて、各地域の公民館や市民会館、学園祭などのステージで、ベースを弾きながら歌っていました。

東京でバンド活動を始めた後は、音楽中心の生活がしたくて会社は退職。アルバイトをしながら、ライブハウスや練習スタジオに出入りしているうち、そこで知り合った仲間と一緒に、高田馬場に自分達のスタジオを作ったり、神楽坂にライブハウス「EXPLOSION」を立ち上げたりすることになったんです(※)。僕はそれらの運営に携わりながら、自分のバンド活動や、人気シンガーの楽曲のベーシックアレンジ、レコーディングやライブへの参加など、さまざまな活動をしていました。

※EXPLOSION(エクスプロージョン):1982年、東京都新宿区の神楽坂駅近くに創業。ヘヴィメタルやスラッシュメタルのバンドを多数輩出し、X(現X JAPAN)やGLAYが出演していたことでも知られる。その後「DIMENSION」「TRASH-UP!!」と店名を変更しながら営業していたが、2018年10月に閉店した。

—-その後、1992年に宮古島に戻られたわけですが、何がきっかけだったのでしょうか。

下地 直接のきっかけは、母が病気で倒れたことです。母は倒れてから4年ほど、意識がなく植物状態が続いていたんですが、年に数回は危篤状態になって、そのたびに母の様子を見に宮古島に帰っていました。そこで甥っ子や姪っ子に会ったとき、僕が方言で話しかけても、彼らが方言で返すことができないのを不思議に思って「どうして?」と聞いてみると、「方言は聞き取れるし意味もわかるけど、しゃべれない」と。中にはしゃべれる子もいましたが、しゃべれない子がほとんどでした。

そのとき、「このままではお袋の命と同じように、島の言葉も消えてなくなるんじゃないか」と、強い危機感を感じました。これではいずれ故郷が故郷でなくなってしまう。そんな思いから、「僕が歌の中に方言を取り入れて歌っていけば、その音楽を通して、次の世代に方言や島の心をつなげられるかもしれない」と思い、「島に帰って音楽活動をしよう」と考え始めました。ただ、僕はもともと民謡をやっていたわけでも、民謡が好きだったわけでもないので、「島での音楽活動」というのは、「自分の音楽を作っていく中で、主観性と客観性のバランスを大切にしつつ、自分なりのリアリティで故郷を表現し、生きていく」ということです。それで島に戻ることを決めました。

—-ただ、そういった音楽活動自体は、宮古島以外の場所でもできますよね。

下地 ええ、本当は東京や沖縄本島で活動するほうが楽なんですよ。移動もしやすいし、ミュージシャン仲間も多いですから。ただ、自分の今後の生き方について考えたとき、自分の足だけでなく、心も故郷に置いて活動するほうが、自分らしいんじゃないかと思ったんです。宮古島に産み育ててもらったからこそ、今の自分がある。であるなら、両親や島に対する恩返しという意味でも、とにかく島に足をつけ、心の根を張って、故郷の宮古島から自分の音楽を発信しようと思ったんです。

●僕のアイデンティティは宮古島にある

—-実際に戻ってみて、いかがでしたか。

下地 覚悟はしてましたけど、大変でしたね(笑)。今は状況が違ってきてますけど、僕が島に戻った頃は「方言を使うのは恥ずかしいこと」という時代で、音楽活動をするうえでの環境も皆無状態。航空運賃も高いし、離島ゆえのハンデだらけで、何をするにも苦労というかチャレンジの連続でした。ただあの頃、漠然とですが「これからはローカルの時代が来る」と思っていて。たとえば島の方言や民謡、宮古上布、宮古馬など、島独自のものを極める人は、いつか世界に通用する時代が来る、という思いが強くありました。離島だから、ローカルだからできないのではなく、ローカルの弱みは強みであり、それは面白いことだと。であれば、それを逆手に取って活動していくしかないと考えました。

—-島に戻ってからは、音楽以外にもいろいろな活動をされていますね。

下地 僕自身は「歌を通して島の方言を残し、それをきっかけとして故郷の再確認につなげること」、そして「島の良さを次の世代や島の人に再認識してもらうこと」が自分の使命だと思っているので、そのためにはそれらを口にするだけじゃなく、実際に行動に起こしていく必要があるだろうと思いました。なので、それまで故郷になかったものや、まだ誰もやっていないもの、自分自身が「島の良さ」に気づかされたり気づいたりしたもの…という視点から、いろいろな活動を行ってきました。具体的には、島発信のラジオ番組の立ち上げや、島のミュージシャンや子供たちのプロデュース、島の伝統芸能イベントのプロデュースなどです。

ラジオ番組は、RBCiラジオ(県域AM局)で毎週土曜に放送している『下地暁のわいわいワイドー!』という番組です。地元局のラジオ番組は、どこの都道府県もその中心地(沖縄でいえば那覇)からの発信が当たり前ですが、僕は「離島からでも発信できる」という思いがあって、自費で島にサテライトスタジオを建てて放送を始めました。たくさんの皆さんに支えていただいて、今年で25年になります。僕は「ないものは作ればいい、お金がなくても“思い”があればできる」というのが発想の源なんですが、これは東京時代に、仲間と一緒にライブハウスやスタジオを立ち上げた経験が役立っていると思います。

そして2002年には、宮古島の伝統芸能「クイチャー」をテーマにしたイベント「クイチャーフェスティバル」を立ち上げて、12年間実行委員長を務めました。実行委員の仕事はすでに次世代に引き継いでいて、今年で18回目の開催となります。こちらもゼロからの立ち上げだったので、企画からスポンサー集め、パンフレットの制作、さらにはフェスティバルで使う楽曲の無償提供など、あらゆる作業を担ってきました。毎年ものすごく大変でしたが、そのぶん達成感のあるイベントでしたね。

ただ、準備期間中は完全ボランティアなので、無給状態(苦笑)。でもそこに「島をもっと元気にしよう、面白くしよう」という信念があったからこそ、やってこれたのかなと思います。僕は自分のことを「故郷バカ」って言ってるんですが(笑)、とにかく島のことになると、ものすごく熱くなる自分がいるんです。この情熱を他のことに向けてたら、今頃は大金持ちになっていたのかもしれないですね。(笑)。

—-その「島への気持ち」は、いつ頃から生まれてきたんでしょうか?

下地 東京で音楽活動をしている頃も、「いつかは島に帰るだろうな」とは思っていたけど、お袋のことがなかったら、まだしばらくは東京にいたと思います。ただ、20代後半くらいから「自分のアイデンティティは宮古島にあるんだろうな」と、気づき始めてはいたんです。その頃、僕の作る歌の中には、故郷への思いや親を思う気持ち、方言や琉球音階が出てきたりしていました。

それでたまたまその頃、音楽仲間と話をしていたら、「人にはそれぞれこだわりがあって、スチュワーデスに歌詞を書かせると、やたらと“空”って言葉が出てくるんだよ」って聞いて、ハッとしたんです。そうか、僕のアイデンティティは宮古島にあって、だからそういう歌詞やメロディが自然に出てくるんだ、と。そんなときにお袋が倒れて、4年間、東京と島を行ったり来たりすることになって。その中で、お袋の命が「家族や島を思う気持ち」に気づかせてくれたんだと思います。

●宮古島をテーマにした“ミャークシリーズ”をリリース

1992年に30代半ばで帰島して以降、「島を元気にするための活動」に尽力してきた下地。特に「クイチャーフェスティバル」の実行委員長を務めていた間は、そちらの運営で手一杯で、自身の音楽活動にはなかなか時間が割けなかったという。だが50代も後半に入ったところで、「自分はもともと音楽家で、島の歌を作ろうと思って島に帰ってきたのだから」と、自身の音楽活動に注力することを決意。2013年に『Myahk』、2015年に『宮古世』と、ミャーク(宮古)をテーマにした2枚のアルバムをリリースした。

両作品とも、プロデューサーには世界的ミックスエンジニアのGOH HOTODA(※)を迎え、宮古島をテーマにしたオリジナル曲と、宮古民謡をワールドミュージック調にアレンジした曲を収録。倍音を豊かに含み、ときに祈りにも似て深く響く下地のヴォーカルが、スタイリッシュでハイクオリティなサウンドと溶け合い、従来の民謡とも沖縄ポップスともひと味違う、独自の世界観を構築している。いずれも聴きごたえ十分の意欲作である。

※GOH HOTODA(ゴウ・ホトダ):1960年生まれ、東京都出身のプロデューサー・ミックスエンジニア。1990年にマドンナ『VOGUE』のエンジニアリングを務めて注目を集め、以降もジャネット・ジャクソン、ホイットニー・ヒューストン、坂本龍一、宇多田ヒカルら、多数の人気アーティストの作品に参加。92年と99年のグラミー賞受賞作品も手がけるなど、世界的に高い評価を得ている。妻はREBECCAのヴォーカル・NOKKO。

今回リリースされた『From Myahk』は、その2作に続く“ミャークシリーズ”の第3弾だ。シリーズ全体を貫くコンセプトは何か、そして今作でこだわったポイントはどこにあるのか。アルバム制作の背景を聞いた。

—-そもそもこの“ミャークシリーズ”は、どういったコンセプトで制作されたのでしょうか。

下地 宮古島のルーツ的なものを形にしたかったんです。「ミャーク」という言葉のくくりの中で、ドラマのように起承転結のあるストーリーが描けたら面白いかなと。だから最初から「1作で終わり」ではなく、最低でも3作くらいは作るつもりでいました。

—-そこにGOH HOTODAさんが参加された経緯は?

下地 GOHさんとは10年以上のお付き合いなんですが、最初の頃は彼がそんな有名な方だとは、まったく知らなかったんです。誰かの紹介だったのか、GOHさんが(当時住んでいた)ニューヨークからふらっと宮古島を訪ねてきて知り合ったんですが、そのときは雪駄に甚兵衛姿だったので、「仕事は寿司職人さんかなあ」とか思ってました(笑)。それがある日、東京の音楽仲間との電話の中で「ゴウ・ホトダ」の名前を出したら、「えっ、それってすごい人だよ」って驚かれて、ネットで調べてみたら本当にすごい人で(笑)、びっくりでした。

—-そのGOHさんが、下地さんの音楽に興味を持たれた理由は何だったのでしょう。

下地 たぶん、僕が「島発信」にこだわって活動していたからだと思います。僕の歌はオリジナル曲でも宮古民謡のアレンジでも、島唄なんだけど島唄ではないというか、GOHさんは「コスモポリタン」と言ってますが、それが面白くてやってくださったのかなと。それで以前から「下地さん、何か一緒にやりましょうよ」って言ってくださっていたので、最初の『Myahk』を作るときに相談したら、「やりましょう! どんなことをやりたいのか、メモをください」という話になり、光栄なことにプロデュースを引き受けていただきました。レコーディングの大半は宮古島で行いましたが、レコーディング機材も宮古島まで持ってきてくださって、マイクのセッティングからレコーディング、ミックス、マスタリングまで…。奇跡のようなレコーディングでした。

—-作品ごとのテーマは、どのように決めていったのでしょうか。

下地 まず1作目の『Myahk』は、GOHさんとも相談したんですが、僕の中で以前から「クラシカルなサウンドで島を表現したい」という思いがあったので、楽器はピアノを中心に、バイオリンや三線、島太鼓と、シンプルなサウンドで作ろうと。ガヤ(環境音)では波の音や風の音などを入れて「島」を丸ごとパッケージし、「ディープな宮古島」をイメージしながらレコーディングしていきました。

それに対して2作目の『宮古世』では、「予定調和は面白くない」ということで、サウンドの深さに広がりを持たせたいと思い、宮古神社で生歌をレコーディングしたりガヤを録音したり、島の子供たちやご年配の方々のコーラスグループに参加してもらったりしました。サウンド面ではピアノを中心としながらも、ギターをフィーチャーした曲を入れたりして、「音霊で宮古島を描く」ことをイメージしながらのレコーディングでした。

●島が激変している今だからこそ、自分達の足下を大事にしたい

—-その2作を経て今回、3作目の『From Myahk』をリリースしたわけですが、今作は宮古民謡のアレンジ曲は入っていなくて、全曲がオリジナルですね。歌詞も方言と標準語のものが半々ですが、このような構成にしたのはなぜでしょうか。

下地 これはGOHさんからの提案だったんですが、前2作のようなワールドミュージック的アプローチって、それはそれで面白いし、好きな人はすごくハマるんですが、それ以外の層には伝わりにくいという側面もあって。それで今作は、もっと多くの人が親しめるようなサウンドにして、リスナーの間口を広げる必要があるのでは、という結論になりました。世の中には、まだ僕の音楽を知らない方の方が圧倒的に多いので、今回はそういう方々にも聴きやすいように、方言で歌う民謡曲は入れず、オリジナルも標準語の歌詞と方言の歌詞を半々にしました。

音作りという面でも、前2作では時代性を感じさせない普遍的なサウンド作りをしましたが、今回はあえて時代に沿うというか、今のJ-POPで主流になっている、ヘッドフォンでも聴きやすい音にしています。そうすることによって、より多くの方に今作を聴いてもらって、そこから前2作にも興味を持ってくれる方が増えていったらいいな、と。

—-今回、そのように「誰にでも親しみやすい作品」を目指したのは、なぜでしょうか。

下地 一番大きな理由は、宮古島が今、すごい勢いで激変しているという現実があるからですね。こんなときだからこそ、僕がずっと大事にしてきた「自分の足下を大切にしよう」というメッセージを、今まで以上により多くの人に届けたい、届けなくては、と思いました。

僕は、音楽は生命と同じように、過去・現在・未来を照らす“光”のようなものだと思っているんです。それでいえば、1作目の『Myahk』は夜明け前のまだ暗い暁の状態、言うなれば「遥か古(いにしえ)の宮古島」。2作目の『宮古世』は、白々と夜が明け始めて、島の未来を照らし始めている状態。それに対して今作は、太陽はすでに昇っていて「いま目の前にある現実」、言い換えれば「目を背けられない現実」に光が当たっている状態。そういう作品にしたいと思いました。

—-宮古島は今、空前の観光ブームが起きていて、いろいろな状況が激変しているそうですね。

下地 ここ1~2年の間に、島は恐ろしい勢いで変わっています。入域観光客数は2015年度に40万人以下だったのが、2018年度には約115万人となりました。それに伴って、新しく橋や空港ができて、観光客や移住者が急増して、ホテルや新しい施設が次々に作られて、昔からの島の風景がどんどん消えています。

もちろん、そういった変化は今に始まったことではなくて、僕が20代の頃にはすでに、島の風景は子どもの頃とはだいぶ変わってきていました。今回のアルバムでは、僕が26歳のときに作った「僕の島」という曲をリメイクして収録しているんですが、その中でも「島の景色も言葉も消えていくんだな…」、「幼い頃の島が懐かしく思えるのは、大人になったからじゃない」と歌っています。

ただ、当時に比べても、ここ最近の宮古島の変化はすさまじいんです。中心街を歩いているのは観光客がほとんどで、島の人はほぼいない。伊良部島の海沿いの土地はほとんど島外の人に買い占められて、立派な家が建ち始めている。いったん島を出た島の人が故郷に戻りたくても、アパートは不足していて家賃も東京並みに高く、でも給料は相変わらず安いから、結局また島を出ていく、そんな状況になっています。35年前、僕が26歳の頃に「僕の島」で歌ったことが、今、誰にでもわかる、目に見える形で変わり始めています。

そこで僕らがなすべきことは、今一度、足下にある島の文化や自分のルーツを見据え、今後の「島が在るべき姿」を、一人ひとりが自分の問題として、しっかり考えて行動することだと思うんです。宮古島の人はもちろんですが、宮古島のことが好きな人にも、そして自分の故郷を大切に思うすべての人にも、このアルバムを聴いてもらって、そこから何かを感じて、「自分には何ができるのか」を考えてもらえたらと思っています。

—-そういったメッセージも、歌詞が標準語だと、より多くの人に伝わりやすいですね。

下地 標準語の場合、歌詞は中学生でもわかるような内容にしようと心がけています。言いたいことはストレートに伝わったほうがいいと思うので。一方で方言の場合は、島外の人にはそもそも何を言ってるのかわからないから(笑)、歌詞の内容ではなく「島の空気感」を届けることを大事にしています。僕は方言で歌うときは、「自分が島の自然の一部になれたらどんなに素敵だろう」と思っています。風や波の音だったり、太陽の光や月明かりだったり、そういったものと同じような存在感で、僕の歌が存在できればと。

GOHさんは、方言で歌うときの僕の声は「音」、楽器として捉えてるそうです。だから「歌」なんだけど、インストゥルメンタルのようにも聞こえるって(笑)。この声は、標準語のときは出そうと思っても不思議と同じようには出なくて、時々ユタさんから「それは島の神様から与えられ、歌わされているんだ」と言われたりもします。

—-サウンド的にも、前2作はゆったりめの曲が多かったですが、今回はポップな曲が増えています。

下地 今作では「ライブでのお客さんとの一体感」という部分も意識しました。一方的に「聴いてもらう」んじゃなくて、みんなで一緒に歌えたり踊れたりできる曲を揃えるのも、間口を広げていくうえでは重要かなと。今回のアルバムの曲と、前2作の曲を合わせてステージをやることで、オーディエンスとの距離感も縮まって、楽しくなるのではと思っています。今後も「ワールドミュージック」というカテゴリに収まらない、もっと幅広く、より充実した音楽活動を展開していきたいです。

—-この“ミャークシリーズ”、次回作の構想もすでにあるのでしょうか。

下地 自分の中で「次はこういう作品を作りたいな」というイメージはあります。今は音楽業界全体がすごく厳しい状況になってきているので、こうやって「CD」という形のあるものを出すのも難しくなっていますが、やっぱり目に見える形で残していくことは大事だと思うので、「思い」がある限りは、それを形にして残したいと思っています。

島に戻ってからあっという間に27年が経って、すでに還暦も超えましたが、自分自身まだやりたいこともありますし、こうして健康でやれていることに感謝しながら、これからも大切な仲間や島と共に活動していきたいと思っています。

—-その下地さんの行動力は、どこからきているのでしょうか。

下地 僕の原動力は「島や家族への思いの強さ」だと思います。正直、こういう音楽をやっているからといって、特に才能があるわけではないですし。僕に才能があるとしたら、それは「思いの強さ」かなと。振り返ってみれば東京にいた頃も、ゼロからライブハウスを作ったりスタジオを作ったりしてたから、島に帰ってきた後も「嘘のない思い、信念があればできる」って考えちゃったんですよね(笑)。人間、目標が決まれば動けるじゃないですか。

(自分の活動を通じて)今以上に「僕には、私にはこんなことができる」と思う人が増え、またそれが刺激となって島の人が元気になり、島が活性化していけば、それはとても幸せなことです。これからもお世話になっている方々や故郷にご恩返しができるよう、「思い」を大切に活動を続けていきたいと思っています。

本作『From Myahk』の制作には、エンジニアのGOH HOTODAのほか、長年の盟友である角松敏生や、ヒット曲「島唄」の作者である宮沢和史(ex.THE BOOM)ら、J-POP界の人気アーティストも作詞・作曲・ヴォーカル等で参加。「僕の島」をはじめとした既発曲のセルフカバーと新曲を合わせ、全11曲を新たにレコーディングして収録している。下地の熱い「島への思い」が、ぎゅっと詰まった1枚。この機会にぜひ手に取って、宮古島に、そしてそれぞれの大切な故郷に、思いを馳せてもらえればと思う。(取材&文・高橋久未子/撮影・親泊宗秀)

下地暁(しもじ・さとる)

1957年、宮古島生まれ。高校卒業後に上京して音楽業界に入り、ライブハウスやスタジオの運営、楽曲制作等に携わる。1992年に宮古島に拠点を移し、1stアルバム『オトーリ』を発表。2002年には宮古島の伝統芸能「クイチャー」をテーマにしたイベント「クイチャーフェスティバル」を立ち上げた。現在、RBCiラジオで毎週土曜に『下地暁のわいわいワイドー!』を宮古島のサテライトスタジオから放送中。2010年より初代宮古島大使。
http://shimojisatoru.jp/

[CD Info]

下地暁『From Myahk』
ラグーンミュージック
SRMK-0031
2,500円(税込)
2019/3/28発売

魂躍らし/んつなか~旅の途中~/風の言ぶれ/僕の島/太陽の歌(2000年NHKみんなのうた)/沖縄ブギウギ/あの日の空~ふるさと~/オトーリソング/みるく世ぬ声合(Featuring Vocal 宮沢和史)/風のあやぐ/未来~サキユー~

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