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2019年10月15日 火曜日

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箆柄暦『六月の沖縄』2019 山里ユキ・饒辺勝子

《Piratsuka Special Interview》

山里ユキ・饒辺勝子
~芸歴60年に迫る名手二人の“いま”を凝縮したアルバム~

1960年代から沖縄民謡界で活躍し、今も現役で歌い続けるベテラン唄者、山里ユキと饒辺勝子。長年の盟友であり、20年前からはコザ(沖縄市)で民謡スナック「友人(どぅしび)」を営む二人が、このたび初の連名アルバム『嬉しゃ 誇らしゃ(うりしゃ ふくらしゃ)』をリリースした。

山里は24歳のとき、島唄の名手・嘉手苅林昌とのコンビで「新里前(しんさとぅめ)とよー」「嘆きの梅」を初レコーディング。凜と澄んだ歌声は「百年に一人の美声」と賞され、「遊び仲風(あしびなかふう)」「本部ナークニー」等の情唄(なさけうた)を得意としている。一方の饒辺は、高校時代から民謡番組やのど自慢大会で注目を集め、情感豊かな歌い回しで「用事小(ゆうじゅぐゎー)」「恋し鏡地(くいしかがんじ)」などをヒットさせてきた。

現在、山里は80代前半、饒辺は70代後半。共に60年近い芸歴を持つ二人は、どんな意気込みをもって新作のレコーディングに臨んだのか。今回は民謡スナック「友人」のカウンターで二人と相対しながら、それぞれの唄者としての「これまで」を振り返るとともに、新作アルバムのリリースに至った経緯、そして唄に込める思いを語ってもらった。

●のど自慢大会への出場から始まった唄者人生

—-まずは、お二人の活動歴からお伺いできればと思います。山里ユキさんがプロの唄者として活動を始めたのは1961年、24歳のときだったそうですが、きっかけは何だったのでしょうか。

山里 きっかけは、のど自慢大会ですね。あの時分は(プロデビューする唄者は)みんなのど自慢からでしたよ。当時は民謡ブームで、レコード会社が常に新しい歌い手を探している感じで。私が地元(沖縄本島北部)ののど自慢大会に呼ばれて出たとき、マルフクレコードから普久原恒勇さん(※注1)と嘉手苅林昌さん(※注2)が会場にみえてて、私の唄を聴いて「吹き込みしよう」って言ったわけ。

あのときは、普久原さんが大阪から帰ってきた後でね。当時、沖縄の民謡界では「マルタカレコード」というレーベルが主流になっていたんだけど、マルフクレコードもこれから盛り返そうってことで、歌い手を探していたんです。

注1:普久原恒勇(ふくはら・つねお)
「芭蕉布」「島々美しゃ」「豊年音頭」など、沖縄を代表する名曲を多数生み出してきた作曲家・音楽プロデューサー。1932年、大阪生まれ。戦前から大阪で沖縄民謡レーベル「マルフクレコード」を経営していた普久原朝喜(ふくはら・ちょうき)の養子となり、クラシック音楽を学びつつレコード制作に携わる。1959年に朝喜からマルフクレコードを引き継ぎ、その後、活動拠点を沖縄に移した。

注2:嘉手苅林昌(かでかる・りんしょう)
1920年生まれ。戦後の沖縄民謡界を代表する唄者の一人で「島唄の神様」「風狂歌人」とも呼ばれた島唄の名手。1999年に逝去。

山里 それで車に乗って、レコーディングスタジオがあった那覇の琉球放送まで行きました。当時は道がガタガタしてたから、片道3時間くらいかかったかな。そのとき嘉手苅さんと一緒に録音したのが「新里前とよー」と、(今回のアルバムにも収録している)「嘆きの梅」。「嘆きの梅」なんて、嘉手苅さんは曲を完全に覚えているからいいけど、私は初めて歌うから、車の中でチャー歌い(=歌いまくり)。それでスタジオに着いたら、すぐに吹き込んで。今だったら、あんなしてレコーディングしないよね。録音が終わっても聴き返しもしないから、自分が歌えてるのか歌えてないのかもわからんかった(笑)。

—-のど自慢大会でスカウトされる前に、民謡を習った経験は?

山里 全然。唄は好きではあったけど、特に習ったことはなかったし、三味線を弾き始めたのも録音の後からです。当時は「女は三味線はできなくてもいい」って感じで、女性で三味線弾ける人は少なかったよ。私ものど自慢大会に出るときは、男性の唄者に伴奏してもらってました。だから、民謡で師匠と呼べる人はほとんどいないんです。普久原先生も、新曲ができたら習うって感じだったし。

●思いがけないヒットで歌い続けることに

—-では、饒辺勝子さんの経歴を伺えますか。

饒辺 私は名護生まれで、父は石川(現うるま市)の出身なんですけど、コザ(現沖縄市)で育ちました。実家はコザ十字路の近くで商売をやっていて、その斜め向かいに中部地区で一番最初の琉球舞踊研究所ができて、周りのみんなが習うから、自分も習わないと気まずいってことで習い始めて。でも中学2年くらいのとき、「高校受験があるから、もう踊りはやらない」って言ったんですね。

ちょうどその頃、家の隣に山内昌徳先生(※注3)のお弟子さんで、久保田吉盛先生という方が住んでいて、その家にあった三味線をいたずらしてたら、先生が「習う?」って言ってきて。気軽に「(お稽古代が)タダだったら習うよ」って言ったら、そのままずっと引っ張られて(笑)、久保田先生が作った民謡グループで歌うようになりました。高校生くらいからはのど自慢にも引っ張り出されるようになって、そこから(唄者としてのキャリアが)始まったんですよ。

※注3:山内昌徳(やまうち・しょうとく)
1922年生まれ。甘い歌声は「100年に一人の美声」と賞され、端正なルックスと併せて県内で絶大な人気を集めた。民謡曲の中でも特に「ナークニー」を得意とし、1958年・59年にはNHKのど自慢全国コンクール大会にも出場。2017年に逝去。

山里 当時は女の子の歌い手が少なかったから、(のど自慢の主催者も)一生懸命に出られる人を探してたんでしょうね。私のところも、名護とかで大会があると「出ませんか」って電話がかかってくるんですよ。私も歌うのは好きだから、誘われたら行くわけ。三味線はできないから、伴奏してもらってね。

饒辺 ユキさんの場合は、出る人がいなかったからじゃなくて、やっぱりいい声だから、みんな出て欲しかったんだと思いますよ。私は師匠にあたる山内先生がのど自慢出身だったから、その関係でしょっちゅうのど自慢に出場させられてて、もう嫌々ながら出てました(笑)。ただ、当時は(直接の師匠ではない)別の先生にも習いに行けたので、私は知名定繁先生(※注4)のところにも通ってました。(定繁の息子の)定男(※注5)は同級生です。

※注4:知名定繁(ちな・ていはん)
1916年生まれ。幼少から琉球古典音楽や民謡に親しみ、太平洋戦争中から戦後にかけては県外で生活しながら唄三線の演奏者、作詞・作曲家として活躍。1957年に家族とともに密航で沖縄に帰郷。代表曲に「別れの煙」「門たんかー」「嘆きの梅」など。1993年に逝去。

※注5:知名定男(ちな・さだお)
1945年、大阪生まれ。知名定繁の息子として生まれ、父と共に沖縄に帰郷後、12歳でレコードデビュー。1990年代以降は島唄ポップスグループ「ネーネーズ」のプロデューサーとしても活躍。

饒辺 それで高校卒業後も、山内先生のレコーディングとかコンサートがあると参加してたんだけど、次第に「この世界は自分に合わないなあ」と思って、いったんは唄三線を辞めて結婚したんです。でも結局、25歳で一人に戻って。そのとき、久保田先生に「民謡グループを作るので手伝って」って誘われて、その頃から民謡がブームになり始めてたから、「じゃあ5年間、30歳まではやります」ってことでまた歌い始めたんだけど、そこからもう、ブームが途切れないんですよね。それで、久保田先生と一緒に民謡クラブを経営することになって。お客さんが100名くらい入る大箱で、従業員もたくさんいたので大変でしたよ。

ただ、その後カラオケが出てきて、店の客足もだんだん落ちてきたし、自分も「もうラクしたい」と思ったから、35歳で店を辞めて、今のお父さんと再婚して、専業主婦になろうとしたんです。でもそのとき、最後のつもりで吹き込んだ「恋し鏡地」が売れちゃって、その後も歌い続けることになりました。

●普段着でお客さんと触れ合える民謡スナックを

—-お二人のお付き合いはどのくらいになりますか?

饒辺 もう40年余るかな。琉球民謡協会の周年イベントでハワイに行ったとき、代表メンバーに選ばれた女性唄者が、私とユキさんの2人だったんです。現地のホテルにはベッドが一つしかなくて(笑)、そこから仲良くなりました。

山里 いろんなステージで一緒になることも多かったしね。

饒辺 いつもいつも、ユキさんが私を引っ張ってくれてね。私が唄を続けて来れたのは、ユキさんのおかげです。ユキさんがいなかったら、今までやってこれなかったと思いますよ。

山里 いやいや、そこは持ちつ持たれつよ(笑)。

饒辺 でも、ユキさんと一緒にやってきたおかげで、海外もあちこち行けたし。文化庁からの派遣でフランスで公演したり、沖縄芸能団の一員として南米とアメリカを回ったり。

山里 アフリカにも行ったよね、一ヶ月。ああいう経験は自分の財産だね、本当に。

饒辺 民謡やっててよかったなぁと思いました。どこの国に行っても、地元の沖縄県人会の人達が、涙を流して聴いてくれるんです。実は今でも、海外から「歌いに来てほしい」というお誘いはあるんですよ。でも、もう年だし疲れるから(笑)、なかなか行ききれませんねえ。

—-その後、二人でこのお店を開くことになったわけですね。

山里 私もずっと自分で民謡酒場を経営してて、小さい店も大きい店もいろいろやったけど、もう何十年も続けるうちに、すっかり疲れちゃって。毎日カンプー結って(=髪を沖縄風に結い上げて)、琉装してステージに立つのは大変だから、普段着でできるお店ならいいかな、と思って、勝ちゃんに相談したら「私もそれがいいと思う」ってなって。じゃあ二人で遊びながらやろうか、ってことで、20年前にこの店を開きました。

饒辺 最初は「一ヶ月もつかねぇ」って笑いながらやり始めたんだけど(笑)、結局は20年になりましたねえ。民謡酒場だと、ステージが終わったら唄者は休憩室に引っ込んで、お客さんと接する機会がないんです。でも、今はお客さんとお話ししたり、リクエストされた曲を三線を弾きながら歌ったり、カラオケでお客さんとデュエットしたりできるから、楽しいですよ。

—-お二人は大御所ですし、特にユキさんはステージでのキリッとした印象が強いので、こんなに気さくにお話しされるのは意外でした。

山里 ステージでは緊張してるんですよ(笑)。

饒辺 でも、その雰囲気が「山里ユキ」のイメージになってるからね。あるときたまたま、ユキさんがステージで笑ったら、お客さんが「あい、今日は山里ユキが笑っていたね」って、驚いてたって(笑)。そういう方がここに来てユキさんとお話しすると、さらにびっくりしますよ(笑)。実際、ユキさんは頭の回転が速くて、話も面白いですから。昔のこともいっぱい知ってるし。

山里 私にとっては、お店は遊び処ですね。お客さんとお話しして歌って、ボケ防止です(笑)。最近、年を取ってだんだん疲れるようになってきたから、私が店にいるのは金・土だけなんですけど。

饒辺 私も以前は休みなしでやってたけど、もう年だし、昔ほどは忙しくないので、今は日月を定休日にしてます。

●やっぱり唄が好きだから、歌い続ける

—-では、今回のニューアルバム『嬉しゃ 誇らしゃ』について伺います。リリースのきっかけは?

饒辺 キャンパスレコードさんから「二人でアルバムを出しませんか」と声をかけてもらって。ちょうど私もユキさんも、以前に作家の方から提供してもらったんだけど、まだちゃんとCDにできていない新曲があったので、この機会に録音しましょうと。

—-お二人が録音したかった新曲というのは?

山里 私は、上原直彦さん作詞、金城実さん作曲の「女一人(いなぐひちゅい)」と、元ちゃん(前川守賢さん)が作詞作曲してくれた「嬉しゃ 誇らしゃ」です。「女一人」は、もう5~6年前にもらった曲なんですけど、「キーが高いので下げてやろうね」って言ってるうちに、今になってしまって。「嬉しゃ~」のほうは、私が元ちゃんの作る曲が好きで、元ちゃんに「私にも書いてよ」って頼んで作ってもらったものなので、前々からきちんと形にしなくては、と思ってました。

饒辺 私は「哀り産子(あわりなしぐゎ)」ですね。この曲は、作った方が自分自身の体験を元に書いた曲で、親が子を思う気持ちを切々と歌ったものなんです。作者の方から「何かの機会にレコードにしてほしい」と言われていたので、今回、その約束が果たせてホッとしました。

—-今回はボーナストラックの2曲(2009年「コザ名物毛遊びコンサート」でのライブ録音)を除き、すべて新録ですが、手応えはいかがですか?

山里 私ももう年だし、昔みたいに声が出ないのはわかってるんだけど(苦笑)、新曲はいつか録音しなきゃ、と思ってたから。今回は若手の仲宗根創くんやHIKARIくんが、唄三線や琉琴などで参加してくれて、彼らのリードでなんとか形になりました。二人とも本当に素晴らしかったですよ。

饒辺 まあ、ユキさんは完璧主義だからそう言うけど(笑)、この年になったら“年のいった声”もまたいいさ。それに、年を取ってもユキさんの喉はやっぱり“百年に一度”ですよ。こういう美声が、これから先の民謡界に生まれてくるかどうか。

山里 いやいや、年には勝てないです。でも、それでもこうして60年近く歌い続けられたのは、なんでかねぇ。やっぱり唄が好きだからでしょうね。

饒辺 それに、唄には“完璧”や“満足”はないしね。私も毎日「次はもっとがんばろう」って思いながら、お店で歌ってますよ。

山里 勝ちゃんの歌声は素晴らしいよ。裏声がよく回るし、舞台でも「声が出なかった」ってことがないさ。私も本当はもう、あんまり人前で歌わないようにしようと思ってるんだけど、やっぱり歌うのが好きだからねえ。(出演依頼の)電話がかかってくると、つい断り切れなくて「いつですか」って聞いちゃう(笑)。

饒辺 だから、ユキさんの声は今でも十分に素晴らしいんだってば。どんなに調子が悪くたって、私よりユキさんのほうがいい声なんだから。本当に完璧主義なんだよねえ(笑)。

そんな軽口もたたき合う仲良しの二人が、今回の新作に収めたのは、各自の新曲や代表曲のソロナンバーを中心に、孫世代の実力派唄者・仲宗根やHIKARIとの共演も含めた全14曲。どの曲も、年齢を感じさせない力強さとしなやかさ、年を重ねたからこその味わい深さを併せ持ち、滋味あふれる豊かな歌声で聴き手を楽しませてくれる。芸歴60年に迫る名手二人の“いま”を凝縮したフルアルバム。民謡ファン必聴の一枚である。(取材&文・高橋久未子/撮影・瑞慶山佳誠)

山里ユキ(やまざと・ゆき)
本部町出身。1961年、24歳のとき、のど自慢大会への出場をきっかけに普久原恒勇に師事し、嘉手苅林昌と「新里前とよー」「嘆きの梅」を初レコーディング。1965年には女性で初めて「本部ナークニー」を録音した。1982年、上原直彦作詞・普久原恒勇作曲の「遊び仲風」が大ヒット。他の代表曲に「遊びションガネー」「夢の唄」など。

饒辺勝子(よへん・かつこ)
1945年、名護市生まれ、コザ(現沖縄市)育ち。中学生の頃から民謡に興味を持ち、久保田吉盛、山内昌徳、知名定繁に師事。高校在学中から民謡番組やのど自慢大会で注目を集め、高校卒業後にいったん活動を休止するも、25歳で復帰。1980年に録音した「恋し鏡地」が大ヒット。他の代表曲に「用事小」「想いションガネー」など。

民謡スナック 友人(どぅしび)
沖縄県沖縄市胡屋1-14-6 2F
TEL:098-934-1072
営業時間:20:00~2:00
営業日:火~土(饒辺勝子は全日在店、山里ユキは金・土のみ在店)

[CD Info]
山里ユキ・饒辺勝子『嬉しゃ 誇らしゃ』
キャンパスレコード
30NCD-96
2,778円(税別)
2019/5/22発売

[山里ユキ]女一人/くいじ/嘆きの梅(with 仲宗根創)/備瀬小唄/嬉しゃ 誇らしゃ/[饒辺勝子]想いションガネー/片便い/哀り産子/恋し鏡地/二才小バーチー(with HIKARI)/[山里ユキ・饒辺勝子・仲宗根創・HIKARI]十七八節/ケーヒットゥリ節~カイサレー/[ボーナストラック ※2009年「コザ名物毛遊びコンサート」音源より]島や唄遊び(饒辺勝子)/遊びションガネー(山里ユキ)

購入はこちらから https://store.shopping.yahoo.co.jp/campus-r-store/30ncd-96.html